今回のオリックスバファローズの2020年途中から監督代行となった中嶋聡監督代行です。※以下、敬称略
強肩というイメージしかなかったので、中嶋聡さんのことを調べて記事にしていきます。




オリックス 中嶋聡 監督代行 【どんな選手だったの?】
生年月日:1969年3月27日
出身地:秋田県北秋田市
身長・体重: 182cm 82kg
投球・打席:右投右打
ポジション:捕手
1986年ドラフト3位で阪急ブレーブス入団。
出典元Youtube BsTV-オリックス・バファローズ公式 【会見】中嶋聡監督代行 代表インタビュー より引用
中嶋聡監督代行の球歴
【中嶋聡】監督代行のこれまでの球歴を振り返ります。



球歴一覧
秋田県立鷹巣農林高等学校
⇩
阪急ブレーブス
オリックスブレーブス
オリックスブルーウェーブ(1987~1997)
⇩
西武ライオンズ(1998~2002)
⇩
横浜ベイスターズ(2003)
⇩
北海道日本ハムファイターズ(2004~2015)
※2007~2015は一軍バッテリーコーチ兼任
⇩
北海道日本ハムファイターズ(チーム統括本部のゼネラルマネージャー)
⇩
オリックスバファローズ(二軍監督)2018~2020途中
⇩
オリックスバファローズ 監督代行 2020年8月21日~
オリックス時代(阪急含む)
1987年に阪急ブレーブスにドラフト3位で入団しました。
1988年10月23日
同郷の山田久志の引退試合で3ランホームランを打ち花を添えた。
1989年、球団名がオリックスブレーブスに変わってから正捕手だった藤田の不調により正捕手の座を掴み取りました。
球界随一の強肩と打撃センスだけでなく俊足で盗塁にも果敢に挑戦していました。
走攻守すべての面を持ち合わせており
メジャーリーグに一番近い捕手
とまで言われていました。
90年代中盤あたりから徐々に打撃が低迷。トレードで入団した高田誠や若手の三輪との併用となった。自慢の強肩は健在で1995年には佐藤義則の当時球界最年長ノーヒットノーランに貢献しました。
95年のリーグ優勝、96年の日本一に貢献しました。
1990年 10月6日のロッテオリオンズ戦
満塁でインフィールドフライをわざと落球し併殺を狙ったが、逆に点を与えてしまった
西武時代
1997年オフにFA宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明。
複数の球団と交渉し、エンゼルスの入団テストを受け入団が決まりかけた。
しかし、エンゼルス側が提示した契約条件が「3番手捕手」が前提のマイナー契約だったため、メジャーリーグ移籍を断念。
国内球団に的を絞り、西武と日本ハムが獲得に乗り出し最終的に西武へ移籍した。
1998年日本シリーズで不調の伊東勤に替わり一時的な活躍をしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことは出来ませんでした。
1999年に入団した松坂大輔の専用の捕手として起用されたが、2001年以降は伊東がマスクをかぶるようになりました。
チームとして若手育成の方針を取ったのもあり出場機会は減っていきました。
横浜ベイスターズ時代
2002年オフに2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍しました。
2003年、谷繁元信がFAで中日に移籍していました。
若手の相川良二、谷繁と入れ替わり中日から移籍した中村武志、中島聡の3人でのハイレベルな正捕手争いが期待された。
中嶋聡は開幕戦で先発マスクを被ったが故障や打撃不振
それに加えて、そもそもそれほど評価の高くなかったリードがセリーグの打者には通用しなかったため結果を残せませんでした。
この年のオフには構想外となり金銭トレードで日本ハムファイターズに移籍しました。
北海道日本ハムファイターズ時代
2005年は3番手捕手だったが、他の捕手の不振や故障で結果的に捕手としてチーム最多の出場機会を得ました。
2006年、守護神のマイケル中村との相性の良さから「抑え捕手」の地位を獲得し試合後半にマスクを被ることがありました。
※2008年シーズン終了まで「マイケルの専属捕手」のような状態でした。※
6月19日、阪神タイガース戦の前に行われたスピードガンコンテストで146キロをたたき出し、中嶋より遙かに若い阪神・日本ハムの選手たちを抑え優勝しました。
2007年から一軍バッテリーコーチを兼任するようになりました。
選手として一軍登録抹消時はコーチとして一軍に帯同していました。
以降は出場機会は多くありませんでした。
引退する2015年の4月15日のロッテ戦で捕手として一軍公式戦に出場。
工藤公康が持っていたNPB一軍実働年数記録(29年)に並びました。
シーズン終了後に自身の意向で一軍バッテリコーチも退任しました。
同じ年に山本昌も現役を引退したため、中嶋の引退を最後に昭和時代にNPBの球団へ入団した現役選手がいなくなりました。
また、阪急・オリックスブレーブス時代に在籍経験を持つ選手は全て引退することとなりました。
引退後
ここからは現役引退後を見ていきます。
日本ハムに在籍
現役引退後は、2016年から日本ハムチーム統括本部のゼネラルマネジャー特別補佐に就任しました。
同じく2016年、業務提携球団のサンディエゴ・パドレスにコーチとして派遣。
アメリカ滞在中には、マイナーリーグの巡回や外国人選手のスカウティングを行いました。
2018年から一軍バッテリーコーチ兼作戦コーチとして3年ぶりに現場復帰しました。
オリックスバファローズへ
2019年からオリックスの二軍監督へ就任しました。
榊原翼・K-鈴木などを一軍戦力に育てました。
2020年8月20日の一軍の試合終了後、西村徳分監督の辞任が決まり一軍監督代行に就任することが発表されました。
人柄
野球成績以外に目を向けてみます
古田敦也が避けたほどの選手
アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていました。
古田敦也は少年時代、地元球団もある阪急ブレーブスのファンであり『阪急ブレーブスこども会』にも入会していたほど。
しかし、古田がドラフト候補になった際「レギュラーがとれない」という不安から「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていました。
語り継がれる素手キャッチ
1990年9月20日の日本ハム戦でそれは起こりました。
当時オリックスのエースだった星野伸之の代名詞「スローカーブ」を中嶋は右手で素手で直接捕球しました。
それを、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こりました。
当時、中嶋は「ミットが届かなかった」と誤魔化したそうです。
ちなみに、この「素手キャッチ」は投球練習でもしばしば見られたそうです。
捕手のイメージを変えた
捕手=巨漢・鈍足
という従来のイメージを変えた選手。
オリックス時代にはプロ野球選手を最初にアイドル的に扱った雑誌「プロ野球ai」に特集記事が度々掲載されるほどでした。
松坂大輔との秘話
松坂大輔が西武入団時にマスクを被ることが多かったのですが
これは当時、西武の首脳陣が松坂を大事に育てる意向で正捕手の伊東とコンビを組ませてもし乱調だった場合・・・
松坂の責任に出来ない関係上、伊東の責任になってしまう
⇩
しかし、伊東はすでに球界の代表する捕手だった
⇩
伊東の責任にも出来ない
⇩
中嶋と組めば「全て中嶋が悪い」と済ませられる
という理由で松坂の女房役だったのでは?
と言われることがありました
実際のところ・・・
オープン戦で伊東と組んだ時、松坂は上手く呼吸が合わず精彩を欠いていました
中嶋と初めて組んだ試合でこれまでと違った投球を見せたことから
リードどおりの投球を求める伊東より、調子に応じてリードを組み立てる中嶋の方が松坂の良さを引き出せる
という判断でバッテリーが決まったそうです。
まとめ
今回は、2020年8月21日からオリックスバファローズの監督代行として1軍で指揮を執ることになった中嶋聡さんのこれまでを振り返りました。
90年代に「メジャーリーグに一番近い捕手」と言われたのは今回初めて知りました。
5位と7ゲーム差の最下位独走という状況でチームを受け継ぐことになりました。
ファンの間でずっと待望されていた杉本(ラオウ)が一軍に招集されており、期待の声が挙がっています。
オリックスの監督として久々の「捕手出身」ということで、これまでと違った面を見せてくれることを楽しみに今日から試合を見ていきたいと思います。
⇩中嶋督代行に替わり、注目度が爆上がりしている辻コーチの記事も書きました。⇩



オリックスバファローズの公式ページへは下のボタンから